日本はアメリカの傀儡政権と考えた小野田 寛郎氏の深い洞察 ! そのとおりだったわけだ !

士官教育を受けた小野田は日本はアメリカの傀儡政権であり、満州亡命政権が在ると考えた。


唯一"亡命政権"の役割を果たせるのは、伊波氏が知事になった場合の沖縄県政権だったかもしれない。[アメリカ軍の施政権下に置かれた県](注1)が"亡命政権"の役割を果たせるというパラドックス......。


占領された実感とことごとく踏みにじられた現実なしに、真の独立を切実に考えることはないのだろう。今日本人に必要なことは、日本が独立国ではない現実を直視することだ。


米国が日本にしていることを、もし他国が米国にしたら米国では蜂の巣をつついたような騒ぎになることは保証する。(Mapple)


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(注1) 1972年5月15日に、沖縄県の施政権がアメリカ合衆国から日本に返還された後も、日米地位協定に米軍の利益を擁護する解釈が示されており、未だアメリカ軍の施政権下に置かれていると言っても 過言ではない。これを切実な問題としてとらえ、健全な法治国家のために声を上げているのは沖縄県だけである。(注 / Mapple)


Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%AF%9B%E9%83%8E
小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年(大正11年)3月19日 - )は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少尉で情報将校だった。陸軍中野学校二俣分校卒。太平洋戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰国を果たす。


1944年12月、遊撃戦指導の任を与えられ、横山静雄中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と命令を受けた[1]。また、派遣前には司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画のもとでフィリピンに派遣された[2]。


日米開戦後日本軍の占領下におかれたフィリピンのルバング島に1944年12月31日着任。

1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、(赤津勇一一等兵:1949年9月逃亡1950年6月投降、島田庄一伍長:1954年5月7日戦死、小塚金七上等兵:1972年10月19日戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為に密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。

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持久戦法によりアメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。

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手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、米軍倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。


また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。
捜索隊はおそらく現在の日本の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると信じて、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、東京オリンピック東海道新幹線等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事を実感し、それがためにかえって日本が敗戦したなどとは全く信じられなかったという。


士官教育を受けた小野田はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州亡命政権が在ると考えた。