菅首相と枝野幹事長は「政治家である前に人間であれ」

「日本一新運動」の原点(4)── 民主党惨敗の本当の原因
日本一新の会・代表 平野 貞夫
http://www.the-journal.jp/contents/hirano/2010/07/post_20.html#more

「政治家である前に人間であれ」。―この教えは私の人生の師である、故前尾繁三郎衆議院議長の遺言である。


 7月11日の参議院選挙で民主党惨敗の原因を考えるとき、この「ことば」の意味を深く噛みしめざるを得ない。

 民主党敗北の理由はさまざまな立場から論じられているが、その最大の理由として「消費税増税」を、民主主義の1丁目1番地である党内論議も経ずに唐突に提起し、その説明不足が原因として、菅首相の責任が問われている。

 このことについては、先の論説でも触れたことから、ここではくり返さない。よりも、私はもっと本質・根源的な問題があると考えることから、今回はそれを論じたい。


 それは菅首相と枝野幹事長は、ひとりの人間として、また、社会の指導者たるべき政治家に相応しいかどうか、これは政治以前の問題である。


 民主党敗因の決定的問題に、1人区で「8勝21敗」という事実がある。こうなった原因は、選挙戦後半に徹底して行われた、「自民党公明党選挙協力」にあることは明白である。例えば、自民が分裂した高知選挙区では、誰もが民主党圧勝と予想していたが、突然の自公協力で苦戦を強いられた。同じように、自民分裂の徳島選挙区では民主党が敗北した。大分選挙区では前回の圧勝から五万票ほど減らし、僅差まで迫られたが、選挙戦後半の追い込みは凄まじかったともいうし、同じ現象が多くの選挙区で展開されたのである。


 突然に自公協力が始まったのは、テレビなどで各党首脳の討論が報道されるようになった頃からである。菅首相も枝野幹事長も、理屈で相手をやり込めることにこだわり、野党の主張に耳を傾けるとか、相手の意見を受け止めるという度量を見せなかったし、論戦で追い込まれると、相手の古傷に指を入れるような態度が再々見られたのを、苦々しく見ておられた方も多かったと推測する。


 1人区の自・公関係者からは、創価学会との関係とはまったく別で、「菅首相や枝野幹事長の口舌は、議論でなく《他人の心を刺す武器》に感じた」ということを聞かされた。私も、テレビを見ながら両人の言霊に相手の人間性を無視した異質の文化を感じたし、映像を通じて平均的日本人の深層心理に、議会民主政治を共有できないことが伝わり、強烈な拒否反応を生じたのが、民主党惨敗の真の要因だと私は思う。


 6月3日、菅氏の民主党代表戦立候補の記者会見で、小沢幹事長(当時)に対して「党のためにも自分のためにも、日本のためにも静かにするよう」と、人間冒涜・憲法違反の発言も、その根は同じである。

となると、菅首相や枝野幹事長の人間としての感性とは如何なるものか。これは民主主義の要諦であり、わが国の議会政治を崩壊させかねない深刻な問題でもある。

 前尾先生の遺言を待つまでもなく、半世紀前のわが国の議会政治は、常識として人間のあり方を理解していることが、国会議員となる前提条件であった。21世紀も10年を過ぎた今日、政権のトップや与党幹事長の人格・人間的感性を問題にしなければならないことに、わが国の議会政治の危機を感じるのは私一人ではないだろう。


 平成15年に、自由党が国会に提出した「日本一新11基本法案」の第1号は「人づくり基本法案」であり、その目的は、万事が地球規模で激変する困難な時代を担いうる人間の育成にあった。


 いま喫緊に必要なことは、当面の政治指導者の中にいる、日本の議会政治を害する人物を《仕分け》することから始めねばならない。


言霊=古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な
   力(大辞泉)、言葉に宿っている不思議な霊威(広辞苑)、
   言葉にあると信じられた呪力(大辞林)