死んでも魂は残る・・

先日、親友のご主人が亡くなりました。
還暦を終えてちょっとだから、まだ若い。
ご主人とも長年のお付き合いをさせていただき、
親友のご主人というだけでなく、かけがえのない友でもありました。
告別式ならまだ間に合うので日本に行こうと思ったが、この時期、航空券が入手できない。逝かれてから心は悶々としている。


彼はいつも沈着で、黙って背後でサポートしてくれる。
人の為に何かをすることを厭わない。そしてけっして表面に出ない。
けど、人々から押されればいやな顔ひとつせず、リーダー役として表面にたって仲間を引っ張ってくれる。
冗談、語呂合わせも大好きで、飲めば必ず笑っている。
話が深刻になれば、黙って聞いて、最後に一言、誰も考えなかった冷静な意見を言ってくれる。


人は必ず逝くのだから・・・と言い聞かせても、どうしても、でもまだ早すぎた・・・と思ってしまう。


お亡くなりになる3時間前にこちらのお寺で読経をした。
つながったという感があった。
ところがその日の夕方、家で「延命菩薩さま」のお経をあげたら、どうしても、苗字が思い浮かばず、どうしても、奥様(親友)の旧姓が浮かんでくる。
お経が終わったら、別に苗字を忘れたわけでなくすらすら出てくる。どうしてこれが読経中に思い浮かばなかったんだろう、って不思議だった。

その時はすでに逝かれた後だったことが後でわかった。
きっと彼は「命の延びるお経読んでも僕はもう逝っちゃったよ。それより、どうか女房のことを祈ってほしい」というメッセージだったんだと、確信した。
僕はいいから女房に・・というところがとても彼らしいし・・。


その夜遅く寝て、あまり寝付かれずまた朝早く起きてしまった。
家の玄関にあたる脇の庭でコーヒーを飲んだ。
ふと気がつくと、ラクーン(洗い熊,尾に縞模様のある狸)が家の入り口で立ち止まっている。
私のいることに気づいてか、気づかずか、しばらく佇んで行ってしまった。


ラクーンと彼を一緒にしたらわるいけど、彼はラクーンのイメージがある。丸顔でかわいいという表現をしたいのだけど・・
あ、そうか、ラクーンに姿をかりてご挨拶にいらしてくださったんだな〜と思った。


この夏の終わり、生物学者から庭師に転職した友人が逝かれた時も、息を引き取られた次の朝、私はコーヒーを飲みに外にでようとドアを開けた。むせかえるような草の香りが入ってきた。と同時に虫の音もした。
後で「あ!そうか。庭師だから草のにおいだよ。わかるかな? って、ご挨拶に来てくれたんだ」って思い至ったのだが・・・・
同じ場所だった。


こうして考えると、やはり亡くなっても「魂」は活きているのだと思う。そしてまだ「魂の器=肉体」のある私たちと交信できる!
そう信じる。