われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない

小沢氏の直言に、枝野氏が小理屈で反論した。詭弁だ、これは。
竹中のまねなんかしないでよろし。情けない。
男女差別の意味でなく言っちゃうけど・・
「男か!!」

管首相の街頭演説を動画でみたが、文の最後に「なんたら、かんたら、・・・と思いますが、いかがでしょうか」と締めた。


ちょ、ちょっと待って。これって、鈴木宗男氏のスピーチの語尾のまねっこじゃん。
鈴木氏は胸のすくようなことを言った後、「・・・と思いますが、いかがでしょうか」と聴衆に語りかける。政治に痛めつけられた我々にとって、これを聞くとほんとうに癒されちゃうのだ。


管首相のスピーチの中身には全然共鳴できない。言葉の使い方だけ「まねっこ」しても鈴木宗男氏のスピーチのように心に響くことはありません!!
言い方に元祖もなにもないから何言ってもいいけど、鈴木宗男氏が人々の心をつかまえていることはきっと分かっていらっしゃるのでしょう。
形だけでなく宗男氏の中身を「まねっこ」してほしいものだが、いかがでしょうか

日米同盟 - 奴隷

ちなみに2005年の日米同盟は英語だけで日本語はない。外務省が訳したものしかない。
これについて、サンフランシスコ講和会議に臨む白洲次郎氏の言動を思い出す。



白洲次郎について:

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1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、


受諾演説原稿は急遽日本語に変更され、随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30mにも及ぶ巻物となり、内容には奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた。


戦後、吉田茂首相の側近としてGHQと渡り合い、従順ならざる唯一の日本人と言わしめた白洲次郎
(“Mr.Why”“Difficult Japanese”“Sneaking eel”―GHQ内部における次郎の渾名)


1925年(大正14年)、ケンブリッジ大学を卒業。


発言集
「われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない」(Although we were defeated in war, we didn't become slaves.)


私は、“戦後”というものは一寸やそっとで消失するものだとは思わない。我々が現在声高らかに唱えている憲法もデモクラシーも、我々のほんとの自分のものになっているとは思わない。それが本当に心の底から自分のものになった時において、はじめて“戦後”は終わったと自己満足してもよかろう」(『プリンシプルのない日本』より)


今の政治家は交通巡査だ
目の前に来た車をさばいているだけだ。
それだけで警視総監にはなりたがる。
政治家も財界のお偉方も志がない
立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い」
(「週刊朝日」1976年(昭和51年)11月18日号)


「今の日本の若い人に一番足りないのは勇気だ。「そういう事を言ったら損する」って事ばかり考えている」




吉田茂の片腕として政治に携わっていた頃の次郎に対するマスコミ評が「白洲天皇」「側近政治」「ラスプーチン」。


「吉田側近として活躍していた昭和20年代後半は、元首相の威を借る「日本のラスプーチン」と呼ばれ、すこぶる評判が悪かったという。高く評価されるようになったのは、吉田氏同様、死後しばらく経(た)ってからだった」―乾正人


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Wikipedia 白洲次郎 より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E



今も昔もマスコミは日本を思う人間を笑い者にしたり、叩いたりしてきた。平成の「ラスプーチン」は牢屋にまでいれられた。


[日本の未来はこうあるべきだ、今のままではいけない]と憂慮し、行動する人々がいる限り、われわれは心だけは米国の奴隷にならないように自分を律していくことができる。
また米国の奴隷になってしまった政治家、官僚を見抜く事ができると思う。