2011年以降、若者たちは「時代を超える夢」を見ようとすることができるのだろうか?昭和の歌謡を振り返って。。

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若者たちの時代 第1章「忘れられた歌姫――青山ミチの存在と闘い(1)」  BY 菊地史彦
http://webronza.asahi.com/culture/articles/2014011500008.html


戦後の復興から高度成長へ、そして長い停滞期へ――若者たちは、それぞれの局面の中で「時代を超える夢」を見ようとした。そのいくつかは社会を動かし、歴史に刻まれたが、多くは顧みられず、忘れ去られた。


 しかしその夢は、いまだ歴史の中に、「未発の可能性」として熱を持ったまま埋もれている。映画や歌などの芸能からスポーツ、事件、経済、政治まで、消え去った若者たちが見た夢の数々を陰影深く描き、もう一つの戦後史を浮かび上がらせる。 


こういうイントロで始まるエッセイを見つけた。
作者は:菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) 
1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立し、企業の組織課題やコミュニケーション戦略を中心にコンサルティング活動を行なう。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『情報文化の学校』(共著、NTT出版、1989)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)がある。


1948年、25歳の米軍兵士と18歳の日本の少女の間に生まれた青山ミチの辿った道は戦後から今の日本への道程と重なる。


朝鮮戦争の終わった1952年に、米兵の父親は帰国し、母子は日本に残された。
青山ミチは出生の6年後、1955年に、祖母サキヲの五女として入籍された。
中学2年生、13歳の時、ジャズ喫茶「横浜テネシー」のコンテストで入賞。
審査員、高木晋司にスカウトされ、歌手として’デビュー。まだまだ基地文化が色濃く残る当時の芸能界で、「国際児」青山ミチはダイナミックな歌唱力と日本人ばなれした声とリズム感で注目され、いくつかのヒットを出す。


ところが、流行歌の世界が混乱期に入り、レコード会社がミチの路線については揺れていた。実力がありながらヒットが出なくなっていた。
青山ミチは万引き、麻薬とスキャンダルがあばかれ、芸能界から追放された。


あれから半世紀、彼女は末娘と二人ぐらしで、現在生活保護を受けながら暮らしているそうです。


お聞き下さい。ミッチー音頭を。
「音頭というタイトルですが和製R&Bの元祖ですね。」ynjlky7121

「こんなに迫力のある唄いをしてたんだね。上手いなあ!今のヘタレばっかの歌手だプロだなんて言ってる若いのこんな唄いを是非聴かせたいな。」MrMegaTheKing


叱らないで 青山ミチ (映画「悪名シリーズ」)

こんな若さでこんな歌が歌えて、人の心をつかめる。なんという歌手だ。
でも歌の歌詞どおりの人生になってしまった。。。青山ミチはこれでよかったと思うのだろうか?それとも?





それから。少し後にでてきた朱里エイコ
この人こそ、アメリカのラスベガス、ニューヨーク、レノなどで、ショーをやっていたので、抜群の歌唱力とパーフォーマンスを提供できる本物のエンターテイナーで歌手。そして足に保険をかけたほどの美脚の持ち主でした。
この方も2004年7月31日にご他界されました。
歌唱力と美脚をご鑑賞ください。♪あー以降の「さび」の部分の高音の「のび」がすごい!

歌の実力より、ヒットがあるかどうか、ご挨拶ができるかどうかでしか評価されない日本の芸能界。アメリカで通用する歌手は敬遠されるのかもしれない。結局つぶされたしまった抜群の歌唱力の歌手でした。



しばたはつみ。この人は若くしてご他界されたけど比較的恵まれていたのでは。。。
父がピアニスト、母がヴォーカリストという環境に育つ。15歳のころから、レナウンのコマーシャルソング等を歌う。丸善石油(現:コスモ石油)の『OH! モーレツ』(実際にCM画面に登場したのは小川ローザ)も彼女が歌っている[1]。


その後、ジャズピアニストの世良譲に師事、1974年に日本コロムビアからシングル『合鍵』でデビュー。
1977年、『マイ・ラグジュアリー・ナイト』のヒットで注目を集める[1]。同年、第28回NHK紅白歌合戦にも出場。
ジャズボーカリストとして、ライブ・コンサートを中心に活動した。松本伊代とは再従姉妹(はとこ)同士である[1]。
2010年3月27日、急性心筋梗塞で死去[2]。57歳。wikipedia より http://ja.wikipedia.org/wiki/しばたはつみ

化石の荒野: 映画 「化石の荒野」主題歌 作詞 - 阿久悠 / 作編曲 - 萩田光雄 1982年4月17日、全国東映系公開



もう1曲、渡辺真知子としばたはつみのヂュエット。二人共抜群。
ちなみに渡辺真知子さんは今も元気にご活躍です。
このブルーは作詞:渡辺真知子、作曲:渡辺真知子 。1978年、3枚目のシングル。

渡辺真知子がジャズのしばたはつみとヂュエットしたことで、この歌にしゃれたテイストが加わり、歌の物語に広がりが出たと思います。




最期に水原弘。この人の歌もいいですね。
彼の歌で一番すきな「黄昏のビギン」
1959年10月 永六輔&中村八大の作詞、中村八大の作曲・編曲.

中村八大はもともとジャズピアニストだし、早稲田大学高等学院在籍時には、ダンスバンドのピアノもやっていた。


ビギン(Beguine)はフランス領マルティニクのダンス音楽で、コール・ポーターが1935年、パリのリッツホテルのバーのピアノで「ビギン・ザ・ビギン」『ビギン(Beguine)を始めよう』を作曲し、アーティー ショーの編曲でヒットした。

From the 1938 short, "Artie Shaw and His Orchestra"
ビッグバンドいいですね。
貴重な映像です。




1930年代、40年代はビッグバンド全盛で、映画にもなったグレンミラーが有名。彼の[IN RHE MOOD]をここに記録しておきます。これも貴重な映像です。

太平洋戦争で日本人が金歯まで国にとりあげられて、女性は皆もんぺを着て、食べる物にもことかいていた時、敵国のアメリカはこんなことしていたのだから勝てるわけないよなーー。
私もアメリカ人と結婚して、彼のこどもの頃の写真と8ミリの映像を見た時、ほんとうにショックでした。
私たち敗戦国の子供たちがあんなに貧しい生活を強いられていた中、戦勝国の子供たちはこんな豊かな生活をしていたんだと。。。その時は一瞬日本人の魂がむらむらとわき上がり、主人を憎みたくなってしまいました。
でもMapple!! 大人になろう!!異文化の融和だよ。それとこれは別問題だよと自分の心の駒を納めましたが。。


アメリカに始めてきて、カリフォルニアからニューヨークにいたる航路から窓の下をみた時、よくこんな国と戦争しようと思ったよなーと感想をもらしたら、ほとんどの日本人がそう思ったとか。。。今から40年も前の事ですが。


今の日本は豊かだからそうはおもわないでしょうね。でも今は全然別のこわさがある。今度日本が戦争したら、敵の無人機が、4〜5カ所の原発を爆破しただけで、日本はもう全滅ですね。
戦争ほど、物心ともに消耗するものはない。絶対戦争はしてはいけないのです。