梅棹忠夫「アマチュア思想家宣言」(一九五四)/「思想の科学」/ 『加藤秀俊データベース』

日々坦々 2011⁄06⁄09(木)
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  • 文明学者・梅棹忠夫がみた未来「市民の力こそ、文明の暗黒に差し込む光明となりうる」

先日ETV特集で『続報 放射能汚染地図』の後、『暗黒のかなたの光明〜文明学者 梅棹忠夫がみた未来〜』が放映された。

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■「思想つかい」の思想(『加藤秀俊データベース』より)
≪梅棹さんの著作のなかで、わたしがいちばん衝撃をうけ、いまなお深く感銘して忘れることができないのは雑誌「思想の科学」に寄稿された「アマチュア思想家宣言」(一九五四)であった。いま全文を読み直してみてもまことに新鮮で、梅棹さんのその後半世紀以上にわたる活動のすべてはこの「宣言」にはじまり、その実践であったようにわたしにはみえる。
 原稿用紙になおしてわずか二五枚ほどのこの「宣言」を要約することはむずかしい。それほどに内容はきわめて深淵で、「思想」というものの本質についての鋭い洞察にみちている。行論には一字、一行たりともムダはなく、文章は明快でわかりやすい。すべて口語文である。
 このエッセイの冒頭で梅棹さんは専門の「思想書」をカメラの難解なマニュアルにたとえ、それがいかに悪文で読むにたえないものであるかを論じたうえで「カメラの本をよんでわからなくても、写真はとれます。・・・われわれの生活もまたそういうもので、思想の本をよんでちょっともわからなくても、生きてゆくのにさしつかえはない」と断定なさった。....


職業的思想家は「思想を論ずる」のが商売である。そこでは一貫性やら体系やらが必要だろうが、それにたいしてマチュアにとっての「思想」は「つかう」ものである。「思想」をあくまで「つかう」立場でかんがえれば、思考や行動は自由で柔軟なものになる。なにも特定の「思想」に忠義立てするにはおよばない。しょせん「プロ的体系主義」と「思想つかい」のアマチュアとはちがうのである。アマチュアは既成のあれこれの体系のなかから都合のいいところをとりだして組み合わせてつかえばよい。「ばらばらにしたら意味をうしなうのは体系のほうなんで、要素のほうは組みかえたらちゃんとつかえる」のであって、べつだんプロの真似をするにはおよばない。 
 思想――「かんがえかた」――というものは「既製品でけっこう間にあう」。それは「ナイフや包丁のたぐいとおなじで、つかいなれたのをたくさん用意しておくとよい。料理すべき材料がでたとき、すかさずちゃっと切れたらよろしい。泉州あたりの大量生産品であっても、いっこうにさしつかえない」と論理はきわめて明快。よんでいて胸がすっきりする。......

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