危険と隣り合わせの最前線<海上保安官>が迷わなくていい指針を政府は示してない !


毎日新聞 11月11日(木)22時5分配信
海上保安官>「迷えない人たち」 「海猿」原作の小森さん
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101111-00000119-mai-soci


小森陽一さん
 「海保」職員とはどんな人たちなのか。
海上保安官の活動ぶりを描いた人気漫画「海猿」の原案・取材を手掛けた漫画原作者小森陽一さん(43)は、ビデオ映像流出事件について、「やむにやまれず出した、と思いたい」と語る。

 小森さんは10年以上前から取材し、約200人の海上保安官に会って話を聞いた。初めての取材時には「海上保安官は『黙して語らず』です」と言われ、まともに話が聞けるまで半年かかったという。
職員に対する一般的な印象は「口べたな人が多いが、一言で言うと正義の味方」。
打ち解ければ、一緒にいて気持ちが良く、底抜けに笑う人ばかりだったという。


 一方で、「迷えない人たち」とも評する。
救難、警備の現場は一瞬の迷いが命取りにつながるからだ。
即断即決が必要な仕事と感じたという。


 生活に身近な警察官や消防士と違い、仕事の内容は一般の人たちに知られることは少ない。
海猿などの作品を発表した際は、海上保安官の家族から「仕事の内容が分かった」と感謝の言葉が寄せられたという。


 今回「流出した」と告白したのは現役の海上保安官
「保安官の誇りもあれば、苦悩もあったのでは。
動機は『政府に抗議したい』でも『国民が見るべき』でもなく、『見てもらえれば、逮捕が妥当な事案と分かってもらえる』という単純なところにあるのでは」と推測する。
そのうえで「流出の是非は分からないが、それに至った経緯を考えるべきだ。
危険と隣り合わせの最前線が迷わなくていいような指針を、政府には示してほしい」と語った。【神足俊輔】


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映画「THE LAST MESSAGE 海猿」もっと強くExile 海猿CMver
http://www.youtube.com/watch?v=YX7cSZN7_fs&feature=related


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海上保安庁 Wikipediaより抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E4%BF%9D%E5%AE%89%E5%BA%81

(かいじょうほあんちょう、英語:(Japan Coast Guard)は、日本の官公庁の一。海上の安全および治安の確保を図ることを任務とする、国土交通省の外局である。略称は海保(かいほ)、保安庁(ほあんちょう)、JCG。


海上の安全および治安の確保を図ることを任務とする行政機関であり、国土交通省の外局。
主に、海難救助・交通安全・防災及び環境保全・治安維持が任務の内訳となるが、現実には海洋権益の保全(領海警備・海洋調査)をも任務としている。
諸外国の艦艇に対応する任務は、海上自衛隊が担当し、船舶に対する任務は海上保安庁が負う。

  • 活動年表 より抜粋


1948年(昭和23年)5月1日 - 海上保安庁発足。


1952年(昭和27年)9月24日 - 明神礁において海底火山の観測を行っていた測量船、「第五海洋丸」が海底火山の噴火に巻き込まれて遭難、調査員9名、乗員22名が殉職。


1953年(昭和28年)8月8日 - ラズエズノイ号事件発生。
北海道猿払村知来別沖において、漁業巡回船に偽装したソビエト連邦工作船「ラズエズノイ」が、日本国内に潜入した工作員を収容するために日本領海を侵犯した現場を、第一管区稚内海上保安署の巡視船「いしかり」「ふじ」が発見。
「ふじ」は、停船命令を無視して逃走した「ラズエズノイ」に射撃を行い、船体に命中。「ラズエズノイ」を強制的に停船させ乗組員全員を検挙した。ソ連は正式に陳謝した。


1954年(昭和29年)4月21日 - 竹島に接近した巡視船3隻、独島義勇守備隊から攻撃を受け、損傷被害を受ける。


1959年(昭和34年)- 日本赤十字社、列車、船舶などを爆破するために侵入しようとした韓国工作員の上陸を阻止した(新潟日赤センター爆破未遂事件)。


1979年(昭和54年)5月17日 - 尖閣諸島魚釣島に仮設ヘリポートを設置するため、第一管区海上保安本部釧路海上保安署所属の巡視船「そうや」を派遣。仮設ヘリポートは、後に中華人民共和国の抗議があったため撤去された。


2001年(平成13年)12月22日 - 九州南西海域工作船事件発生。威嚇射撃したのち不審船の反撃を受ける。銃撃戦の末、北朝鮮工作船は自爆し沈没した。
交戦において、巡視艇が被弾して日本の海上保安官3名が負傷した。北朝鮮側の工作員は20数名が死亡した。後に、東シナ海沖の中国のEEZ(経済水域)内に沈没した工作船が引き揚げられた。


2005年(平成17年)5月31日 - 対馬沖の日本の排他的経済水域 (EEZ) を韓国の漁船「502シンプン」が侵犯。
第七管区海上保安本部所属の巡視艇2隻が、臨検のため「502シンプン」を停船させたが、当該船は、臨検のために乗り移った保安官2名を乗せたまま韓国側EEZへ逃走。
追跡した巡視艇7隻が、韓国蔚山沖で漁船員の引渡しを求めて韓国海警察庁の巡視艇6隻と39時間に渉って海上で対峙。結局、漁船のEEZ侵犯を認める代わりに身柄を韓国側に引き渡されるという灰色決着になった。


2005年(平成17年)12月6日 - 韓国海警察庁海上保安庁に対し、日本領海における捜査権の譲渡を要求したが、海上保安庁は「捜査権の譲渡は主権侵害にあたる」として拒否した。


2006年(平成18年)4月14日 - 海上保安庁は、竹島周辺の排他的経済水域での海洋調査を、国際水路機関 (IHO) に通報した。これは、韓国政府が竹島周辺海域の海底地名を日本名から韓国名に変える発議を同年6月のIHO総会で行う観測が流れたために、対案を提出するために行うというものであった。


海上保安庁では4月18日に測量船「海洋」「明洋」を出航させて境港沖に待機させ、工作船事件の教訓から配備されたPL型「あそ」を後詰めとして派遣した。
対する韓国海警察庁は、竹島周辺海域警備任務の為に導入した6,350トンの軍艦仕様の大型巡視船「参峰(サンボン)号」を始めとして警備艇20隻を竹島周辺に展開させ、特殊部隊である海洋警察特別攻撃隊を投入して拿捕を行うと宣言した。
それに対して日本政府は、政府船舶の拿捕は国際法違法であり、拿捕すれば直ちにIHOに提訴するとした。
結局、韓国がIHO総会で地名変更の発議をしない代わりに、日本は海洋調査を行わないということで決着になった。


2010年9月7日 - 尖閣諸島周辺の領海内で違法操業し、巡視船に衝突した中国のトロール漁船の中国人船長を公務執行妨害容疑で逮捕状を請求する。(詳細は尖閣諸島中国漁船衝突事件を参照)


この時点の国土交通大臣は、前原誠司(現 外務大臣)、外務大臣は、岡田克也(現 幹事長)。前原は、ダブルの責任者 (Mapple)

  • 海難救助等に関する活動年表

1954年(昭和29年)9月26日 - 洞爺丸事故
1959年(昭和34年)9月26日 - 伊勢湾台風
1966年(昭和41年)3月5日 - 全日空羽田沖墜落事故の捜索活動で出動したが、ヘリが墜落して乗員3名が死亡した。


1983年(昭和58年)9月1日 - 大韓航空機撃墜事件発生。その後約2ヶ月に亘り大規模な海上捜索を実施。


1990年(平成2年)8月20日 - 樺太に住む当時3歳の男児コンスタンチン・スコロプイシュヌイが全身に大やけどを負う。
サハリン州知事からの救助要請を受けて千歳航空基地所属のYS-11A「おじろ」が、日本の航空機としては戦後初めて宗谷海峡を越えて、コンスタンチンをユジノサハリンスク・ホムトヴォ空港から丘珠空港まで緊急搬送。


1999年(平成11年)10月22日 - 日本の会社が所有する大型貨物船「アランドラ・レインボー」が海賊に襲撃され行方不明となる事件が発生。船会社から通報を受けた海上保安庁は、鹿児島海上保安部所属の巡視船「はやと」とファルコン900航空機を派遣。フィリピン沖からマレーシア東岸にかけての南シナ海全域を捜索。


2000年(平成12年)12月- 宮城県金華山はるか沖で、シンガポール船籍タンカーの乗員が重篤の状態になる。
釧路海上保安署所属のPLH型巡視船「そうや」と塩釜海上保安部所属のPLH型巡視船「ざおう」が救助に向かう。
搭載ヘリコプターの能力では本土まで直接搬送が不可能な沖合であったが、2隻の巡視船の協同対処により、初の「飛び石搬送」による急患搬送を行った。


2003年(平成15年)7月2日 - 玄界灘海難事故発生。


2004年(平成16年)10月20日 - 海王丸II世の座礁事故発生。翌21日、台風23号による荒天の中、乗員乗組員併せて167名が無事に救助された。


2009年(平成21年)10月28日 - 伊豆諸島の八丈島近海で乗組員8人が行方不明となった漁船、第1幸福丸鎮西町漁協所属)の捜索行い、八丈島付近で転覆した当該漁船を発見、船内から乗組員3人を救出した。


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