杉原千畝 : 「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。」

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杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)は日本の官僚、外交官。


第二次世界大戦の際、リトアニアの在カウナス領事館に赴任していた杉原は、ユダヤ人難民が亡命できるよう大量のビザ(Transit visa.通過査証、通過ビザとも)を発給。外務省の命令に反するこの行為により、ナチス政権下のドイツによる迫害を受けていたおよそ6,000人にのぼるユダヤ人を救ったことで知られる。


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「難民へのビザ発給は許可できない」という通告が発せられた。それは杉原にとっては事実上の最後通告であった。
また同時期、ソ連からリトアニア併合に伴う日本領事館の閉鎖通告がなされていた。


こうした政府方針、外務省の指示に背いて、1940年(昭和15年)7月25日、杉原は日本通過ビザを要件の整わないユダヤ人たちにも半ば無制限に発給することを決断。
ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、杉原と妻の幸子はベルリンへ旅立つ9月5日までおよそ1か月余りビザを書き続けたとされる。


その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2139枚。また、次第に日本領事館の閉鎖日が近づくとともに作業の効率化のため、途中から記録するのを止めてしまったと言われている。その為、実際には記録に残っているビザ以外にも数千枚のビザや渡航証明書が発給されたと言う説もある。また、1家族につき、1枚のビザで十分であったため、家族を含めて少なくとも 6,000人ものユダヤ人の国外脱出を助けたとされる。

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1947年(昭和22年)に日本へ帰国、神奈川県藤沢市鵠沼に居を据え、同年6月27日に外務省を依願退職した。なお、ビザ発給の責任を負わされた形で強制的に退職させられたとする説もある(後述)。
ただし、政府(外務省)は「現在まで、杉原が外務省から懲戒処分を受けたという記録は見つかっていない」という見解である。


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1946年(昭和21年)から外務省のみならず行政組織全体に対して行われていた「行政整理臨時職員令(昭和21年勅令第40号)」に基づく機構縮小によるリストラの一環とされたが、
妻の幸子によれば、口頭で「例の件」の責任を免官の理由として告げられたという。


退職金や年金についても不利な扱いはなかったとする人も有り(『意外な解放者』参照)、この点に関しては妻・幸子が自著において退職金を受け取っていたことについて認めていることと一致する一方で、戦後、杉原の消息を尋ねるユダヤ人協会からの問い合わせに、それが杉原をさしている事は当然推測されたにもかかわらず「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答したことがある。


この事例に外務省内の杉原に対する悪意を見てとる意見もある。


1991年(平成3年)10月には、
鈴木宗男外務政務次官(当時)が幸子夫人を招き、杉原副領事の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、
杉原副領事の行動を日本人として誇りに思っている旨、
また、50年にわたって外務省と杉原副領事の家族との間で意思の疎通を欠いていたことは不幸なことであった旨を伝えた。


前述にもあるが、杉原は語学に堪能であり、母語である日本語をはじめ、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語など6つの言語を話していた。なお、千畝も幸子も正教会で洗礼を受けていた。


満州外交官時代に日本軍の軍人から差別を受けていた現地住民を助けたという話がある。杉原自身は差別に対して否定的な考えを持っていたと伺える。
なお、妻の話では、杉原は「ただ純粋に正直な人」であったとされる。


言葉として
「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった 」
「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」 が残されている。