李登輝・台湾前総統と後藤新平

後藤新平の生誕百五十年を記念して「後藤新平賞」が新設され、第一回「後藤新平賞」に李登輝・前台湾総統が受賞。

後藤新平は1857年生まれで、1929年に没した。李登輝・前台湾総統は1923年生まれで、すれ違いの世代であるが、「精神の空間で結ばれている」と述べられた。
1898年3月から1906年9月まで、8年7ヶ月を後藤新平は台湾民政長官として過ごした。そこでの彼の業績を「台湾の近代化の基礎を作った」と李登輝・前台湾総統は大きく評価される。


もともと医者だった後藤新平は民衆を人種・国の違いに関係なく人間として捉えてきた。そして国の繁栄は人にあると・・。国の宝である人々の健康・衛生環境を整えること、産業の近代化によって地元の人々が職を持ち、経済活動が円滑にできるように、それによって貧困とつながる非衛生的な環境、衣食住の改善が成し遂げられる・・というコンセプトがあり、それは東京大震災後の東京・復興・都市計画もしかり、台湾においても、中国北部にしても同じ考えであった。


下水道、貧困密集地域でのアパート建設、災害を防ぐ市街道路の拡張。交通要所、駅などには広い広場をもうけ、幹線道路の設置などなど・・
そこには自国と他国の対処の差別はない。どの都市でもどの国でも自分の信念を貫いてきた。
しかし方針は一環していても、実施計画はそれぞれの地域、住民の伝統、習慣に即して対処。そうした智恵の形跡が文献に残っている。


84歳の李登輝・前台湾総統は、「日本の教育を受け、『肯定的人生』という人生観を体得して、農業の改革に着手し、その後、台北市長、台湾省省長を経て、副総統、そして十二年間にわたって総統として、一滴の血も流さないで台湾に民主化という“静かなる革命”をもたらすことが出来たことを一生の誇りとする。これらは後藤新平の台湾施政への哲学的基礎の上になりたっており・・・」と後藤新平賞受賞記念スピーチの中で語られている。


日本の若者へ:
「かつて日本の若い人に会ったときは、自分だけよければいい、国なんか必要ないという考え方が強かったようだが、社会・国家への考えた方が、大きく変わり始めた。戦後60年の忍耐の時を経て、経済発展を追求するだけでなく、アジアの一員として自覚を持つようになった。」と。


又、「日本人はあまりにも中国人を知らなすぎる。(中略)中国人になって中国人と話をしなければならないということだ。日本的な日本人の立場で中国人と話しても話は合わない。」というアドバイスもくださった。


更に、日本文化については:
「日本文化とは何か? 
私は高い精神と美を尊ぶ、いわゆる美学的な考えを生活の中に織り込む心の混合体こそが日本人の生活であり、日本の文化そのものであると言わざるを得ない。
次に日本を訪問する機会があれば、日本は歴史的にもっと創造的な生命力を持った国に生まれ変っているものと信じている。」とスピーチを締め括られた。


ここまで書いて「敬語」を使っていたことに気づいた。それは社会的地位を脇において、人間の先輩として、年長者としての尊敬心から自然に出てきたのだろう。
人間とは何か、文化とは何か・・・という〝人の本質”に迫るスピーチができる政治家、膝を交えてお話を聞きたいと思える政治家が、日本やアメリカにいったい何人いるのだろうか?